4月25日
俺は学問の無い野蛮人だから、知らないことは何でも人に訊くのが、若い頃から習慣になっている。
“訊くは一時の恥、訊かざるは一生の恥”なんて言葉は、俺の字引には無い。
俺にはそんなこと、当たり前なんだ。わざわざ格言にすることなんかないと決めている。
しかし、これだけ永く耳学問の研鑽を積んで、分かった急所が一つだけある。
知らないことを訊く時、手近にいる誰に訊いてもいいということはないのだ。
ろくに知識のない奴でも、訊かれるとその途端にもっともらしく話し出すということを、俺はハタチまでに散々思い知った。
そんな知ったかぶりのお蔭で、俺は小学校四年までヒトの髪の毛は植物だと思い込んでいたし、ついほんの七年前まで、ビールにはカロリーなんて無いと信じていた。
知らないことを訊かれて、「知らない」と言う人は、本当に少ない。
いくら主治医が書いてくれたダイエットメニューを、ひもじいのを我慢して誠実にやっても、体重が減るどころか増えたから、俺が絶望して、百二十キロになる前に死んでしまおうと、思い詰めたのは今から七年前のことだ。
その当時の俺の主治医は、今の日本医科大学の大庭先生ではない。念の為に余計なことだが書いておく。
絶望した俺がヤケになって、「千八百カロリーで肥るんなら、カナリヤでも熱帯魚でも百キロにならぁ」と叫んだら、その当時の主治医は額を両手で押さえて困り果
てていた。
暫くそうしていて、「このメニューの他に、もしや貴方は、お酒を……」と、訊いたのは、この先生が下戸だったから、患者も呑まないと決め込んで、ダイエットメニューに、昼飯はビール二リットルまで、夕飯は日本酒四合までなんて書いておかなかったからいけない。
内科の主治医は患者のダイエットメニューを作る時、自分がオロチだろうと下戸だろうと、患者に合わせてチャント酒の欄をつくらなければいけないんだ。
なんと七年前の俺は、毎日呑んだ酒だけで、千カロリーを超えていたらしい。
これでは何年ひもじい思いをしても、痩せるわけがないんだ。
今の俺は大庭先生の優秀な患者になったから、たちまちミドル級でカンバック出来るほどスリムになった。
この頃は怖くて地下鉄に乗れなくなったから、交通費がかかって困る。
地下鉄は逆の電車がホームに入って来ると、華奢になった俺は風に吹き飛ばされて、線路に落ちてしまいそうになるから、危なくて乗れないんだ。
と、そんなわけだから、誰に何でも訊いていいものではない。
慎重に、冷静に相手が信じるに足る人物か見定めて訊かないと、ひもじさに耐えて、挙句の果
てに五キロも肥ることになる。
刈っても摘んでも伸びる髪の毛は、植物じゃないし、ビールにも〆張り鶴にもちゃんとカロリーはあるんだ。
つい余談が長くなったけど、先日パーティーで西久保壽彦さんにお目にかかった。
中学一年の時、隣に坐った西久保さんは、四つある牛の胃袋の名前から、アイスランドの首都まで、知っていることは何でも、俺に教えてくれた方だ。
おそらく三十年振りの再会だったが、俺には西久保さんが確かなことを教えてくれるという絶対的な信頼があったから、一番気にかかっていたことを、この際訊いておこうと思った。
神様は本当にいるのかとか、アメリカの院内総務ってのは日本で言えば何だなんてことは、俺は西久保さんには訊かない。
この方は俺にとってはエースなんだ。
「ね。西久保さん。腐敗と発酵はどう違うんだい」
教えてくれと俺は、コップ酒を呑んでいた西久保さんに頼んだ。
この件はこれまでに、二十人近い人に訊いたのだが、俺はピンと来る答を教えてもらっていない。
塩辛と腐った魚のはらわたの違いを、明快に教えてくれた人は誰もいなかったのだ。
「ウン、ナオちゃん。それは人間が管理しているか、していないかの違いなんだよ」
クイとコップ酒を呑んで、西久保さんは俺に明快に教えてくれたんだ。
六十八歳になりかけている俺は、大庭先生と西久保壽彦さんに支えられて、いろんな疑問が解けている。
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