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第77回 『悪夢の一時間半』 |
九月三日の午後一時半から三時に掛けて、その悪夢の出来事は起こった。 少し大袈裟かも知れないが、一部始終を細大漏らさず書くから、俺がどんな目に遭ったのか聞いてくれ。 あと一時間、あの状態が続いていたら、俺は過労死していたに違いない。 自分がお使いに行っている間に、テレビの据え付け工事の時間を知らせる電話が掛かって来るから、留守番電話を解除して聞いておいて欲しいと、女房が言ったので、俺は「任せておけ!」と、勇んで爽やかに答えた。そんなことぐらいは、心配しないでも俺にだって出来る。 家のリビングルームは二階で、古稀を迎えた俺は少しヨチヨチしているが、玄関に誰か来ても三分とは待たせずに階段が降りられるし、勿論電話だって応対出来るんだ。 安心してお使いに行けばいいのに、女房はいろいろ細かく心配する。五月と六月のふた月で、町内で三回転んだのが、女房の心配の原因らしいと俺には分かっているのだが、内心バカにするなと思っている。 あの時は三回共、気持ちよく酔っ払っていたんだ。昼間、素面で家に居て、転びも何もするわけないだろ。 リビングには、象牙色のウニが寝ているだけで、家の中には他に誰も、ソニンちゃんも滝クリも上戸彩も居ないのだから、女房殿は心配することなんかないんだ。それでも女房は、なにやら心配そうな顔でお使いに出て行った。 ウニは女房が出て行くと、ドアの所まで行ってニャォーと啼く。もう一歳三ヶ月で体重五キロ、尻尾の長さが三十二センチもある立派な牡猫なのに、まるで甘ったれの仔猫だ。 俺と二人切りになると、「ママは何処なの?」と繰り返し大声で啼く。 しばらくして、俺は手洗いに行きたくなった。 二階の手洗いは階段の脇、つまりドアの外にある。ウニは外には出さないことになっていて、二階のリビングとダイニングが居住区なのだ。 手洗いに行こうと、俺がドアを開けたら、ウニは素晴らしいダッシュで、スルリとくぐり抜けて、そのまま一気に階段を玄関に向かって駈け降りる。 真っ直ぐおっ立てた三十二センチの尻尾と、その下のピンクのおケツの穴と象牙色の尻と黒いキンタマが可愛い。それでも誰か玄関を開けると、ウニが表に出て車に轢かれたらいけないので、俺は手洗いに行くのはやめて、チャックを上げて追い掛ける。 一階の風呂場の前まで追い詰めた時、電話が鳴ったのが聞こえて、俺はウニを逮捕するのは中止して、二階のリビングまで戻った。 ところがこれが間違い電話で、無礼なことに御免なさいも言わないで電話を切りやがった。こんな奴は見ないでもドブスに決まってる。 急いで俺は階段を降りて、風呂場の前で寝そべっていたウニを、エイヤッと抱え上げ、二階まで十七段、階段を登ってドアを開けて、ウニを部屋の中に降ろしたら、又、ピョンと跳ねて俺の股の間から廊下に出てしまった。 ドアを閉めてから、ウニを解放すればよかったのだが、後の後悔、先には立たない。 自由になったウニは、今度は階段を降りずに三階にぴゅーっと駈け上がる。尻尾は立てたままなのだが、くたびれた俺には可愛くも何ともない。 また電話が鳴る。今度は間違い電話じゃなく、小学館の福本青年だった。俺が余程、切羽詰まった声を出していたのだろう。何かあったのかと怪訝な声で訊いてくれた。俺は、「ウニが、ウニが…」と譫言のように繰り返す。ウニを知っている福本青年は、「ウニちゃんが、どうしました?」なんて、暢気なことを言う。俺はこの悪夢のような出来事を、縷々説明して同情を誘った。 |
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