気流が悪くなって機体が上下に揺さぶられる。
上がる時は飛行帽を掴まれて持ち上げられるようで、下にストンと落ちる時は、まるで胃の腑と尻を両手で掴まれて、どこまでも引き摺りおとされるようだと、栗村盛孝は思った。
フワリと機体が上に持ち上げられる時は、なんということもないのだが、気流という見えない奴はバランスがあっていて、上がったら必ず下がる。
上がり放しなら青年日本号は、まるでイカルスのように、太陽まで飛び上がってしまうだろうが、そんなことはない。
必ず次の瞬間、気流の奴は万力みたいに掴んで、機体をグイと下に引き摺り下ろす。
落ち続けたことはこれまでに一度もなく、下降が止まって左右に揺れると、また上に掴み揚げられるのだが、自分の意思ではなく機体が動くのには、特に地面
や海面に向かって引き摺り降ろされるほうが不快だと、二等飛行士の免許を取ったばかりの栗村は思う。
「平気だ、栗村。五十メートルも落ちちゃいない」
伝声管から熊川教官が声を掛けてくれる。
機体が沈み込んで安定した時に、栗村は高度計を見たのだが、瞬間的に反応しないから、五百メートルの所で針が小刻みに震えている。
羽田を離陸してから二時間半、ガブラレ始めて四十分。
これまで必ず下がれば上がり、上がれば下がる繰り返しだったけど、それはたった四十分の経験だから当てになんかならない。
連続して下がり続ければ、堪らず墜落してしまう。
五百メートルなんて高度は、上昇するのは大変だが、せいぜい高尾山くらいのことだ。
しかし、教官が平気だと言ってくれても栗村は落ち着かない。
舟はほって置いても浮かんでいるが、飛行機は違う。
飛行する理論は揚力、推進力といろいろ学んではいた栗村だが、初めて気流に揉まれると、正直に言って怖い。
「慣れて怖くなくなると、今度は気持ちが悪くなるぞ。中にもどすと木津川に着くまでずっと臭くて、もう飛ぶのが嫌になるぞ。外に出せ」
もどす時は伝声管を叩け。喋っている暇なんかないぞ。そしたら俺は首を縮めて汚いものが掛からない様にする。首を外に突き出せるように、ショウルダーハーネスを今の内に少し弛めておけと、後ろの席から熊川教官が親切に教えてくれる。
復唱したり頷いたりしている間に、栗村は喉に酸っぱいものがこみ上げて来た。
さすがベテランの操縦士だ。 こうなったら伝声管なんか使えないことを、よく御存知だと、拳で竹の筒を叩きながら栗村は、思い切って首を伸ばして頭を機外に出来るだけ突き出す。
黄色い胃液の中に陸地が迫って、大きな街が見えて来た。
「あれが津だ。あそこから北西にコースを採って、鈴鹿峠から油日岳の北を抜けて大阪に出る」
陸地に掛かる前に、出すものはみんな出しておけと教官が叫ぶ。
「羽田の歓送式で何杯も乾杯でミカン水やサイダーを呑んだので、ちょっと」
と、まで言って栗村が口籠もると、
「ちょっと、なんだ?飛んでる時はなんでも短くはっきり言え」
根は優しい人だと栗村も知ってはいるのだが、短くて情け容赦の無い言葉が、後ろから浴びせられる。
「あの……。大きいのではありません。小さいほう、つまり前のほうです」
口に付いた胃液を、懐紙を飛行服の前のポケットから出して拭いながら、栗村はしどろもどろで叫ぶ。
叫びながら、若い二等飛行士は、なぜ子供の頃に母親に小声で言ったようなことを、大人になって大声で言わなければならないのかと、情けない閉口垂れた顔になる。
「母さん、おしっこ」
と、言っているようなことだった。
「お前さんと一緒に乗ってるのは女の子じゃない。所沢の六インチ砲と異名を取った俺だ。小さいのとか前のほうなんて、気取った曖昧なことを言うな」
小便だろうと教官は怒鳴った。
陸に近づいて尚更、気流はわるくなって、青年日本号はそれこそ急流を行く木の葉みたいに揺れる。
堪らず栗村は伝声管を叩いて、叩きながら胃液を吐く。
目に涙を溜めた栗村は、尻を操縦席の椅子にずらすと、思い出して、 「小便です。教官」と言い放った。
「クソじゃなくて良かったな」
伝声管から笑いをふくんだ声が聞こえて来る。
「小便なら簡単だ。サックにして海に捨てろ。忘れずに機が安定した時に、外したサックの根本を縛れ。縛らずに投げるとションベンまみれになる」
俺たちが持っているのは、薬屋で売ってるハート美人じゃなくて、陸軍が寄越した“突撃一番”だから、兵隊が遣う丈夫な奴で厚いから三リットルしたって破れないと、教官は楽しそうに長々と叫ぶ。
操縦席は、こんなことをするのには狭過ぎると思いながら、小物入れから摘まみ出した小さな紙袋から衛生サックを出して、栗村は生まれて初めて飛行機の中で、小用を足す。
「尾翼に当たらないように、手を下に伸ばして放すんだ」
言ったとおりにしようとしたら、
「コラ、なんでも俺に言われたことは、復唱しろ」
もの凄い怒声が伝声管から聞こえて来る。
「教官や尾翼に当たらないように、手を下に伸ばして、七百ミリリットル爆弾を投下します」
栗村が言ったら、
「余計なことを言えるようになったら、もう大丈夫だな」
木津川飛行場まで後たっぷり二時間は掛かると、教官の機嫌のいい弾んだ声が聞こえて来る。
栗村の手から離れたサックは、水色に色が変わった岸辺の磯に向かって、クルクル回って落ちて行く。
膨らんだゴムはツチノコみたいに見えた。
心配していた陸に落ちずに、ツチノコはギリギリで海に落ちた。
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