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高度を900メートルに上げて、甲賀から伊賀と西へ飛んで青年日本号は木津川飛行場に向かう。
「時速百二十キロ、高度九百メートル、燃料残二分の一」
伝声管から栗村の声が聞こえてきた。
羽田で二百七十リットル、ガソリンを積み込んでいる。
下に見えている雑木林と山の間の畑が切れると、大阪の郊外の町並みが見えて来るはずだと熊川は思った。
もともと三時間も飛べれば充分な練習機に設計された青年日本号を、長距離飛行が出来るように燃料タンクを、機体と両翼に増設したから、飛行機というよりむしろ、空を行くガソリンタンクになっている。
陸地に入ってからも気流は悪く、機体は小刻みに上下を繰り返していたが、出すものを出し尽くしたので栗村は、生気を取り戻したようだ。
これで朝鮮半島を縦断して満州里に着陸する頃になれば、二等飛行士の免状をとったばかりの栗村も、空の上で腹が空くようになると、熊川は思った。
自分も飛び始めた頃はそうだったから、大学二年生の栗村も必ずそうなると熊川は思っている。
戻し戻しでは体力を消耗して、長距離飛行は出来ないし、とてもモスコーまでは持たないから、陸軍だって呆れ果
てるに違いない。
この青年日本号のローマを目的地にした訪欧飛行は、限られた人間しか知らないが、実態は帝国陸軍がシベリヤ鉄道を中心に、ロシヤを探る隠密飛行なのだ。
操縦士が軍人だったりすれば勿論、新聞社の飛行機でもロシヤの革命政府がおいそれとは許可しないから、法政大学の名前を借りて、大学生の栗村を主席操縦士に仕立て冒険飛行の体裁を整えた。
つい十年ほど前まで日本軍は、革命軍に追われた帝政ロシヤ派の保護と救出を名目に、シベリヤのチタからイルクーツク近くまで出兵していたのだから、当然のことながらロシヤは警戒している。
だからわざと、弱馬力でスピードも出ない練習機に、学生と教官を乗せた青年日本号を飛ばしたのだ。
史上初の共産革命に成功したロシヤも、まさかこの蝶かトンボのような飛行機が、恐ろしい日本陸軍の隠密や忍者だとは思ってもいないだろう。
法政大学の総長はそのことを知っているが、学者の内田百聞、航空部部長先生は、どうやら御存知ないようだと、熊川は苦笑する。
もし御存知なら、自分の大学の学生が軍事探偵をする飛行に教授たる者が、あれほど無邪気に喜ぶわけがないと、熊川は思って首を伸ばして頭に風を当てたのだ。
難しいことが頭に浮かぶと、熊川は必ずそんな想いを風で吹き飛ばすことにしている。
今では飛行中に、頭にそんな想いが浮かぶと、自動的に首を伸ばす。
操縦士は飛行のことだけ考えていればいいのだ。
忍者の里、伊賀の上空を飛びながら、これから長駆モスコーまで隠密飛行をするパイロットは、人間には何時の時代でも、表には出せない役割を担う者がいると、顔を歪めてひとつ溜息をついた。
熊川と栗村は、百二馬力、百二十キロの青年日本号で、満州から遠くモスコーまでお国の為に命懸けで探るのだ。
陸軍がシベリヤ鉄道沿線のスパイフライトを立案したのは、熊川の思うのには今から三年前、昭和三年頃で、昭和四年に法政大学に航空部を創り、使い古した練習機を寄付して、教官に自分、熊川良太郎を招いた。
自分はその頃、所沢の山階の宮の飛行学校で教官をしていたと、熊川は慌しく過ぎた時を懐かしく思い出す。
山階の宮は、空や鳥が好きな変わった宮様で、雲や鳥類の研究をしたり飛行学校を創ったりしたのだ。
陸軍飛行学校へは逓信省の委託学生として入ったから、卒業して操縦士の資格を取っても陸軍に入らなければならないというわけではない。
命令で殺し合いをする軍人は性に合わなかったし、新聞社や旅客機会社から声が掛かる前に、宮様の飛行学校から誘われたから、熊川は何も考えないですぐ決めた。
熊川は所沢の陸軍飛行学校を出て、そのまま宮様の飛行学校の教官になったのだ。
今、思い返すと、もうその頃から陸軍は、こんなスパイフライトをやる時の要員に、自分を確保していたのではないかと、思った途端に熊川はまた首を伸ばす。
大阪近郊の上空で高度を三百メートルまで下げる。
海の手前の埋立地に木津川飛行場が見えて来た。道行く人が立ち止まると、空を見上げる。
御者が空を見上げていても、馬車は道路を外れずに進むのが栗村には妙におかしかった。
馬は飛行機より利口だ。
御者が手綱を引かなくても目的地に向かって歩き続ける。
こんなことを思うのも目的地が見えてきて、心にゆとりが出来たからに違いなかった。
「海から接近して着陸する」
熊川の声が、とても逞しく伝声管から聞こえて来た。本当にこの教官は頼り甲斐があると、免許取り立ての二等飛行士は思ったのだ。
木津川飛行場はもともと水上機、フロート付きや飛行艇の基地だったものに、陸上機のための滑走路を増設した飛行場だから、上空から接近するといかにも狭苦しい。
海側には水上機用のデリックや格納庫があるし、陸側には工場や倉庫が並んでいる。
青年日本号はただでさえ重いのに、羽田から約五時間半掛けて飛んできたのに軽くなったのは、約百五十リットルのガソリンと、それに主席操縦士が戻した胃液と投下した突撃一番爆弾だけだ。
木津川飛行場には、羽田より大勢、出迎えが来てくれている。
滑走路の端に着地しないと、重い機体は何処まで滑走してしまうか、とにかく初めての着陸だから見当が付き兼ねる。
熊川は慎重にスロットルバルブを絞って、高度を下げた。
下手をすると失速して、頭から土手か滑走路にめり込んでしまう。
所沢の陸軍飛行学校で同期だった十名のうち、これまでの十五年で、七人が事故で命を落としていた。
熊川は生き残った三人の一人なのだが、死んだ七人のうち、四人は失速だった。
燃料が百五十リットルほど減っても、まだ八百キロをはるかに超える重量
の青年日本号だ。
これほど重い機体を着陸させたことは、熊川でも一度もない。
出来るだけ速力を落として着地したいのだが、失速すれば全てが終わる。
機首を起こし過ぎては、絶対にいけない。
着地して、もし重い機体が止まらなければ、運が悪かったと諦めるしかない。
自分も二十九歳の儚い命だったし、栗村にしてみれば、二十二歳の花の命だと思うと、熊川は思わず首を伸ばしながら、息を止めた。
軽いショックがあって、二つの車輪が滑走路に触れる。
同時に熊川はスロットルバルブを閉じた。
あとは青年日本号の重い機体が、止まってくれるのを祈るだけだった。
信心の無い熊川には、祈る神が無い。
ただ息を呑んで、近づいて大きくなる倉庫のコンクリートを睨みつける。
出迎え人の振る日の丸の旗が大きくなって、尾翼の下にある橇が地面
につく その瞬間、青年日本号は両翼を震わせて、スピードが落ちた。
回り続けていたプロペラが止まって、突然聞こえてきた大歓声が、栗村の耳に飛び込んで来る。
昭和六年五月二十九日、午後三時。
青年日本号は最初の目的地、大阪木津川飛行場に着陸した。
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