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蔚山を離陸した青年日本号は、初夏の朝鮮半島を北西の京城目指して、鉄道線路の上を低く飛ぶ。
「これだけ積んで、どれだけ動くか五百メートルまで上昇してテストする。ショウルダーハーネスを確認しろ」
伝声管から教官の声が聞こえて来た。
「はい」
と、答えてから栗村は安全ベルトを確認して、何か固定してない物がないかと、素早く前部座席の周囲を見回す。
「テストの準備、確認しました」
栗村が叫ぶのと同時に、エンジンの回転が上がって機首が太陽に向く。
教官はシベリヤにかかる前に、青年日本号のギリギリの性能を知っておこうとしたのだと、栗村は思って顔がこわばった。
しかし、栗村が緊張した割りには機は加速しない。
ほんの三十時間ほどの飛行経験でも、これまで栗村が乗った練習機は、スロットルバルブを全開にすると、背中が操縦席に押し付けられるほど加速したのに、九百キロ以上の青年日本号は重すぎる。
それでもゆっくり上昇して、高度計の針が震えながら五百メートルを指した。
機は左翼を上げて、一杯に右旋回する。
下がった右翼の下に畑が見えて、白い服をまとった農夫がいたが、ほんの十秒ほどで栗村の視界から消えた。
一回大きく旋回すると、教官はフルスロットルのまま機首を起す。
前方上空、二百メートルほどの所に浮かんでいた入道雲を目指したのだが、高まったエンジン音も空しく新米の栗村が歯痒くなるほど、近づかない。
逆にスピードは落ちて来たのだ。栗村は少しでも空気抵抗を減らそうと、首を竦めて操縦席から飛行帽のテッペンだけ出す。
やっと機は入道雲の中に入って、熊川はスロットルバルブを戻した。
雲の中に入ると上も下も両脇も、みんな白くて何も見えない。
「もう止めだ。鉄道の上を百二十キロで京城に向かう」
教官の声に、栗村は復唱する。機は白い塊から抜け出た。
天候も気流も申し分ない。
慶州、大邱、大田、そして平沢と、次々に街の上を飛び越えて行く。
上空を往く青年日本号を見た朝鮮人は、みんなしていたことや、歩くのを止めて空を仰ぎ見る。
大人は男も女も手をかざし、子供は揃って口を開けていたのが、栗村にはおかしかった。
「鉄道線路の分岐点では注意しろ。俺の先輩で京城に飛ぼうとして、とんでもない忠州まで飛んじゃった人がいる」
伝声管から教官の声が聞こえて来た。
「はい。線路の分岐点ではよく注意します。」
栗村は復唱して目を凝らす。
初めて飛ぶ朝鮮は、地形や川の様子が日本とは違うと、熊川は思った。
これまでに通過した川は、いずれも水量が少なくて、上空からはどちらが上流か分からない。
それに大邱と大田間の山や丘は、どれもこれもみな同じようだから、どれが有名な秋風嶺か見分けがつかない内に、飛び越えてしまった。
とにかく初めての土地を飛ぶのだから、これからモスクワまで、面食らい続けるに違いないと熊川は覚悟する。
無事にモスクワまで着けば、それからローマまでは楽しい遊覧飛行だ。
狭い谷、低い丘、その間に点在する灰色の小さな家。水の少ない川の白い河原と、草もまばらな凸
凹だらけの平野。
上空から見る限り朝鮮の田舎の貧しさは、熊川には日本より非道く見えた。
大きな丘をひとつ越えると、京城の街が目の前に広がる。汝矣島飛行場の滑走路が見えた。
出迎えのフォッカー機が三機、編隊を組んで飛んで来る。
熊川は飛行服の袖をめくって腕時計を見た。
午後五時五十分、青年日本号は京城汝矣島飛行場に着陸した。
ホテルの支配人は若い日本人で、栗村に封筒を手渡す。
宛名は見覚えのある富美子の筆跡だったが、裏を返して差出人を見ると、金英姫と書いてあった。
支配人が訝しげな顔をしていたのは、生まれ付きではなかった。
昨日、東京を飛び立って京城に着いた栗村に、本土の東京から、朝鮮名の女から切手を一杯貼った航空郵便が届いていたのだ。
誰でも怪訝な顔をする。 栗村が熊川の前で、その分厚い封書の封を切って読むのが躊躇われたのは、内容を懸念したからだった。
確かにこの手紙は富美子が書いたものなのに、なぜ自分より早く京城に着いているのか。
航空郵便でも東京から、どんなに早くても五日はかかる。
それに富美子は神田という苗字だ。金英姫なんて名前じゃない。
「歓迎会には着替えて行かなきゃいけない。シャツを着てネクタイを結び、背広を着るのが正直言って面
倒だな」
熊川は封書を握って当惑していた栗村に、そんなことを囁いたのだ。
「六時半に此処で会おう」
言って熊川は階段を登って行く。
教官は届いていた航空郵便にも支配人の普通ではない様子にも、素知らぬ
顔をしてくれたのが、若い栗村にも分かった。
栗村はロビーの椅子に坐って、封書の封を切った。
早く読みたくて、とても部屋まで行く余裕はなかった。
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