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ぶ厚い便箋が入っている封筒は、栗村が指先で裂こうとしても、頑強に拒んでいた。
破けないことはないのだが、これ以上、力を入れると中の便箋も破きかねないと思って、栗村は封筒を掴んだまま立ち上がると、フロントに戻った。
「鋏を貸してくれ」
支配人は物々しく巨きな鋏を貸してくれる。
植木の手入れが出来るような鋏で栗村は、航空郵便の封を切った。
フロントの端に黒い電話機が置いてあって、中年の日本人の男が噛み付くような顔で話している。
相手が朝鮮人らしく、ゆっくりと、周囲に遠慮がない大声で繰り返して喋るから、聞き耳なんか立てなくても、栗村の耳に男の野卑な銅間声が嫌でも聞こえて来る。
「七時から宴会だ。ヒチジ……。だからその前に此処へこい。ココ、ホテルだ。早く来い」
電話の相手は、中年男が言ったことに何か否定的なことを喋ったらしい。
「宴会の終わった後は当たり前だ。アタリマエ。宴会の前にひとつ抱かせるんだ。アレヲサセルンダ」
栗村が返した鋏を受け取った支配人は、ニヤリと頬と目尻に皺を寄せた。
ただの微笑ではない。
辺りに構わず卑猥なことを、大声で喚く日本人を軽蔑して、前にいた栗村に共感してもらおうと、卑しく笑ったのだ。
栗村が手にしていた航空郵便は、差出人が朝鮮の女だということを支配人は知っている。
その瞬間、栗村はいろんな想いが頭に浮かんだのだが、日本人の中年男がどんなに野卑でも関係ない。
今は富美子が何を書いてきたか、心配で仕方がなかった。
栗村は外国郵便を、もらったことは勿論、自分で出したこともなかったから、日本から朝鮮の京城まで何日かかるか知らない。
いずれにしても青年日本号が、羽田を飛び立つ何日か、もしかすると十日以上も前に、富美子はこのぶ厚い手紙を出している。元気で行って来いというような内容であるわけがなかった。
富美子は金英姫と、栗村が初めて見る名前をこれ見よがしに書いている。
下宿の住所の横に三文字、書かれた名前が富美子ではなく、金英姫という三つの漢字が、厳しく他人行儀に並んでいたのだ。
とにかく着替えて、歓送会の為にホテルを出る前に、読まなければならないと栗村は思った。
思ったなんてことでは、なかったのかも知れない。
考えたのではなく、身体が勝手に動いていたのだ。
自分がしたのと同じ、苦笑とも憫笑ともつかない笑いを、支配人は期待していたのだろうが、栗村は固い表情を崩さず、ロビーの椅子に戻った。
鋏で封を切った栗村には、電話を掛けている男の声も、ロビーを歩く他の客の足音も聞こえない。
“盛孝様、貴方とお別れすることに決めました。よく考え抜いた結果
なのです”
富美子の固い小さな字で、最初にそう書いてあった。
富美子と最後に会って、枕を交わしたのは、今から二日前の五月二十八日だから、まだほんの七十時間も経っていない。
思えば確かに、ここ暫く富美子は素振りがおかしかった。明らかにそれまでとは様子が違ったから、羽田を離陸してからもずっと栗村は、富美子のことが気に掛かっていたのだ。
大阪では泊まった旅館から、富美子に長距離電話を掛けようかとさえ思ったほどだったが、もし言い争うようなことになったら、醜態だと思って栗村は思いとどまったのだ。
醜く言い争うのを、他人には聞かれたくない。自分は旅館の電話ボックスの中でも、女の富美子は下宿の玄関にある電話だから、他人の耳がある。
言い争いになるかもしれないという予感は、栗村にはあった。
最初の一行で目が大きく開いて、そのままになった栗村は、息を呑んで次の行を見る。
なぜだ。なぜ、あんな深い仲だったのに、富美子は自分と別れると決めたのだ。
栗村の額はこわばり、頬が震える。
“貴方は、なぜ御自分が訪欧飛行の操縦士として、出発するのか、なぜ危険を冒すのか、わたしに教えてくださいませんでした。このような大事な決断を一人でしておしまいになるのに、わたしは絶望しました。
女に知らすようなことではないと、思っていらしたのですから、これ以上のおつきあいは無用です”
一字一句が栗村の眼球に突き刺さってくる。
便箋五枚に小さな字で書かれた手紙は、最初の三分の一しか読めていなかった。
「歓迎会や歓送会はいつでも、お前様が主賓だぜ。早く部屋に行って着替えてこい」
椅子の横に立って、悪戯っぽい声で言ったのは教官の熊川で、ちゃんと濃い灰色の背広を着て、ワイシャツに細かい模様の地味なネクタイを締めていた。
青い血の気の失せた顔で立ち上がった栗村は、両手に読みかけの手紙を持っている。
「一人や二人逃げても泣くな。世界の半分は女なんだ」
地面にいるパイロットは、休みの日の中学生みたいに、屈託がなくて陽気だと栗村は思った。
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