この写真には僕は映っていませんから、厳密に言えば手配写真ではありません。
あまり時代がかった写真なので、こんなのもタマには面白いかと思って、皆様にお目に掛けることにしました。
これはただの写真じゃなくて、「大写真」と言うべき雰囲気が立ち込めています。
この大写真が撮られたのは、今からほぼ百年前の1912(明治四十五)年頃、場所は大英帝国華やかなりしロンドンの、とある写
真館です。
母方の祖父、梶原仲治は明治の立志伝中の人物で、山形県の福浦村で生まれて苦学して当時の東京帝国大学を卒業し、銀行家になりました。
この当時は日銀のロンドン監督だったと聞いています。
今とは役職名が違いました。支店長より上役だったのでしょうか、それとも、もしかして一緒だったのでしょうか。とにかく、どれほど偉かったのか分かりませんが、課長や部長、それに支店長なんて聞き慣れた役職名ではなくて、監督でした。
六尺、二十一貫だったというのですから、その頃だと三役力士の体格です。
凄い羽のついた帽子を被っているのは、祖母のウメで、戸籍謄本にはムメと書いてあります。
明治のその頃は鰻も仮名で書くと、ムナギでした。どうやらウとムは同じだったらしいのです。
このウメ祖母さまとは、戦争中ずっと一緒に過ごしたので、僕はよく覚えています。
華奢だけど、とてもフットワークのいい、すっきりして垢抜けた婆様で、一番小さな孫だった僕にとても優しくしてくれました。
白いドレスを着た娘の小さな方が母、玉枝で、フランス人形みたいにスラリとして綺麗なのが、春枝伯母さんです。
この一家は第一次世界大戦で、ドイツのツエッペリン飛行船に爆撃され、次女の母、玉
枝にいたっては、父、安部正夫と一緒になって再び渡ったロンドンで、御丁寧にも今度はナチスドイツの爆撃機、多分ユンカースかハインケルに爆撃されました。
この写真の頃は小学生だった母、玉枝が、父、安部正夫と一緒になって、1937(昭和12)年につくった末っ子が、皆様御存知の僕です。
何処の一家でも富と権力はともかく、品位だけは三代掛けなければ伝わらないと言いますが、この写
真で見た限りでは、姉、福久子や兄、博也はともかく僕の所で品位の継承は断ち切られたと、残念ですが思わざるを得ません。
この大写真を見るたびに、僕は忸怩たる想いに苛まれるのです。
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